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新紙幣最後の紹介!新千円肖像の人北里柴三郎のプロフィール!

新千円の肖像丼ネル先生(カミナリ親父)北里柴三郎
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いよいよラスト、お札紹介最後の人!

ノビ

満を持して登場です!北里柴三郎先生です!

モブ

いよっ、待ってました!

・・・・・・・。

ノビ

前回から思ってたけどなんでそんなに北里さんに入れ込んでるわけ?

モブ

だって我々庶民が最も手に取るであろうお札ですよ!思い入れないわけないじゃないですか!

なるほどわかるようなわからないような(今やほぼリアルマネー使わない人)

しかしそれ抜きにしても今回の北里柴三郎さんにはなかなか関心があります。

実は渋沢氏、津田女史は以前よりどういう功績があった人物かなんとなくは存じておりました。

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しかし今回の千円の人「北里柴三郎」なる人物。

不勉強で恐縮ですが名前だけかろうじて聞いたことがあるという認識にとどまっています。

ノビ

これを機会に彼の人の功績を勉強するとしますか!

ヤブ

では北里先生のプロフィール、調査開始です!

モブ

きゃっほううう!(テンションおかしい)

千円の人「近代日本医学の父」北里柴三郎

1853年(嘉永5年)生まれ。出身地は肥後国阿蘇郡小国郷北里村。

モブ

つっこまない、つっこまないぞ・・・・てやっぱつっこむわ! KITAZATOdocherじゃなくてAN○AIteacherじゃないか!

ノビ

諦めたらそこで研究終了ですよ。

家は庄屋(村の代表者、まとめ役)の生まれで、豊後藩士の娘である母親からは厳しいしつけと教育を施されました。

幼少から青年期にかけてはおもに漢籍や国書など、漢学や国学のような伝統ある教育を受けたのですが、もちろん後の細菌学者としての西洋の素養はありません。

初めて当時の洋学に触れるのは明治4年、藩立の西洋医学所に入学してから。

その学校のお抱え教師だったマンスフェストに出会い、医学の世界を知り生涯の道を定めることになります。

師から短期間で語学(この時はオランダ語)を習得し、その通訳まで務めるようになった柴三郎はマンフェストから格別の信頼を受けていたそうです。

遅咲きの医師の卵、都へ進出す

23歳の時に上京し、東京医学校(現在の東京大学医学部)に進学。

ノビ

23歳で大学進学って遅咲きだな。

デブ

当時の秀才は維新当時の新造の教育機関にどんどん入っていったッス!現在と違って学問による年齢的な制限ははあまりなかったみたいっス!

モブ

制限なかったっていうよりも年齢詐称が横行してたようです。当時は結構そういう面で緩かったんですね。秀才も足りないし。

教育者側との隔たりも現在ほどなかったようで、彼は在学中よく教授の論文に口出ししていたため、学校側との関係が険悪で留年常連組だったというエピソードも。

ノビ

モブのような辛口ツッコミ担当だったのか。

モブ

私そんなに辛口ですかね?これでも手加減しているんですが。

ヤブ

いや、台湾ラーメンより激辛よ?

そんな柴三郎でも1883年には医学士の資格を取ります。

その在学中の学びの中で「医師の使命は病気を予防することにある」という当時としては先進的な理念を持つに至り、予防医学を趣旨とした著書「医道論」を書きました。

この予防医学を志したことが、医学者、研究者としての彼のその後の人生を決定づけることとなります。

卒業し一時就職するも、研究のためドイツに留学

東京医学校を卒業後、内務省衛生局に就職しますが、彼の気持ちは海外へと傾きます。

1885年(明治18年)に上司の計らいによってドイツのベルリン大学へと留学。

近代細菌学の権威であったコッホに師事し、業績を上げ評価されるようになります。

1889年(明治22年)世界で初めて破傷風菌だけを抽出し「破傷風菌純粋培養法」に成功。

更に翌年には破傷風菌抗毒素を発見し、世界中の医学界を驚嘆させました。

それのみでなく、「血清療法」という菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に抗体を生み出すというような革新的な方法を編み出し、一躍破傷風菌研究の第一人者に上り詰めます。

このころから北里柴三郎の名は世界の医学界で著名になっていきました。

モブ

キッタザト!キッタザト!

ノビ

日本は開国ほどないわけで、世界に名の通った人ってあんまりいなかっただろうから医学界に限定されるとしても当時はすごいことだったろうな。

医学研究者として日本人初のノーベル賞候補へ

そう、彼は当時の日本人としては規格外にグローバルな活躍をしていました。

何せ第一回ノーベル生理学、医学賞候補に「北里柴三郎」が候補に選出されたのです。

もっともその研究対象はジフテリアで、彼は共同研究者のベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表し、結果共同研究者のベーリングのみが受賞する形となりました。

この受賞の顛末は様々な理由や憶測がありますが、当時は二人同時受賞が認められていなかったことや、アジア人に対する蔑視があったのではないかともいわれています。

いずれにしろ真相はわかりませんが、日本人初のノーベル賞候補となったという事実に変わりなく、彼がいかに世界的な実績を重ねていたかがわかるエピソードです。

彼はこの論文が注目され、さまざまな研究機関から勧誘されますが、日本の医療体制と伝染病対策の改善を理由に固辞し帰国することとなります。

帰国するも相変わらずツッコミ癖は治らない北里センセイ

柴三郎は帰国するも、世界で活躍していたにもかかわらず国内で居場所がなく、肩身の狭い思いをすることになります。

理由は当時日本の最高学府であり、唯一の伝染病研究が可能な施設がそろっている東京医学校、現東京大学医学部との仲が最悪だったからです。

在学当時から歯に衣着せぬ過激派(教授にとっては)でしたがそれだけではありません。

事の発端はドイツ滞在中、脚気(壊血病)の病原菌を発表した緒方正規という学者に対し、実験方法の不備などから

「そんな菌はねえよ」

ツッコミを入れた(否定した)こと。

何を隠そう、この緒方さんは上記で書いた彼のドイツ留学の便宜を図ってくれた上司。しかも東京医学校の先輩。

当然医学校派閥系の学会の人間たちから「恩知らず」と大ひんしゅくを買います。

恩と事実を指摘することとは話が別と反論しますが、そんな話が通じるわけもなく、日本の医学界の主派から総スカンを食らう羽目に。

ノビ

北里ですが日本の医学界の空気が最悪です。

モブ

ちなみに当人の緒方さんですが、こんなことがあったにも関わらず北里さんと個人的には良好な関係を続けていたそうです。いい人だったんでしょうね。

窮余の紙幣の新人、紙幣の大先輩から助力を得る

ともかくも直言家柴三郎、多少自業自得ながらも伝染病研究継続の大ピンチ。

そいつはいけねえや、と腰を上げてくれたのが当時教育界の重鎮で、啓蒙思想家としても名高かった「お札の先輩(一万円)」福沢諭吉。

彼は柴三郎の海外の業績を評価していて、国内で満足な研究機関を持てない彼のために1892年(明治25年)「私立伝染病研究所」を設立するために奔走し、柴三郎を初代所長に据えることに成功します。

デブ

そういえば梅子の時も伊藤博文(旧一万円)や新渡戸稲造(旧五千円)がフォローしてたっス。新旧お札の共演半端ないっス!

伝染病研究所は移転の際もすったもんだがあったり、経営が順風満帆とはいいがたかった時代もありましたが、そのたびに福沢は支援を惜しまず、あらゆる方向から柴三郎を助け続けました。

ペスト菌を発見し感染症学の巨星に

そして柴三郎の功績を決定づけた出来事がやってきます。

香港でペストが大流行し、その調査研究を国から依頼された柴三郎は病原菌である「ペスト菌」を発見。

のちに彼が感染症学の巨星と呼ばれる実績を作ります。

(ちなみにほぼ同時期にフランスの細菌学者アレクサンドル・イェルサンも同じ香港でペスト菌を発見し、それと感染症とを結びつけたのが唯一同氏だったため、学名を冠する栄誉は彼に譲った形になりました)

その後、伝染病研究所は正式に国立伝染病研究所として国家直属の機関に組み込まれ、もともと伝染病研究は国家レベルで取り組むべきだと考えていた柴三郎は存分の研究をすることができるようになります。

しかし1914年(大正6年)、政府は所長である柴三郎に相談もなく研究所の所管を内務省から文部省に移してしまいます。

そのことに柴三郎は断固として猛反発。

ノビ

別に所管が変わっただけで国家所属のままじゃん。何怒ってんの?

ヤブ

文部省所管となったと同時に東大の下部組織に組み込まれるという発表があったんです。そしてその所長は東大派閥の学者・・・・。後は言わなくてもわかりますよね?

まだ東大閥との確執があった柴三郎は所長を辞任し、自分で研究所の設立に動きます。

名前は「私立北里研究所」(現学校法人北里研究所)。

北里大学の母体でもあります。

そこで柴三郎は狂犬病、インフルエンザ、赤痢などの結成開発の研究に再び没頭し勤しむことになりました。

日本の医学派閥の統一。その旗頭に

恩人である福沢が創立した慶應義塾医学所が廃校を経て、新たに慶應義塾大学医学科として生まれ変わったとき、その恩義に報いるため学長に就任します。

だけでなく、自分の研究所のエース(北島多一、志賀潔など)を教授に送り込み、慶應義塾の医療教育の水準を大きく引き上げ発展に尽力しました。

慶應義塾大学のみならず、日本の医師会の統一にも一役買います。

それまで教育機関ごとに小さな医師会が乱立し、一部は反目しあうなど日本医療の発展に大きな障害となっていた医師派閥。

政府による医師法の改正もあり、柴三郎らが先んじて組織した全国規模の大日本医師会をもとに、1923年初めて法定による全国的規模の組織、日本医師会が誕生します。

その初代会長が新千円の肖像、北里柴三郎、そのひとです。

その後戦争を経て、体制の変遷はあるものの原型としては統一された医師会として現在に受け継がれています。

モブ

日本近代医学の初代トップにして細菌学に多大な貢献をした偉い人なんですねえ。病気の予防なんて今は当たり前だけど当時の概念にはなかったんでしょうね。

ノビ

満足したかい?はいじゃあこれ。今回の報酬。

モブ

ん?ナニコレ?千円の束・・・・

ノビ

いやモブ千円札好きなんでしょ?これからは全部千円札でお給料払おうと思ってわざわざ用意したんだよ?

モブ

・・・・・・お・ま・え・ふ・ざ・け・ん・な・よ!ちゃんと万札でよこせよ!しかも渋沢じゃない現在の諭吉で!

ノビ

ええええ~良かれと思ってやったのに・・・・

お金は大切です。歴史も重要ですが使い方もちゃんと勉強しましょう。