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新紙幣の予習!肖像に採用された人たちのプロフィール。新五千円の人津田梅子編

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前回は一万円の人、渋沢栄一編のプロフィールをお送りしました。

来年の新紙幣 壱萬円・渋沢栄一
今年の新紙幣!肖像に採用された人物たちのプロフィール。一万円の人渋沢栄一編 今年最早半年が過ぎようとしている。 約半年後には新紙幣が導入される年ってあまり実感感じない今日この頃。 ノビ 年月経つの早...

今回は五千円の人、津田梅子。そして千円の人北里柴三郎

ノビ

早速調査開始!頼むぞ諸君!

モブ

いやあんたがやるんだよ!お札のごとくビリビリにしたろうかワレェ!

やります。やらせていただきます(焦燥)。

クエスト開始!「残りのお札の人をリサーチせよ」

5,000円の人:女子教育者の先駆け、津田梅子

モブ

誰だ!もはや似顔絵ですらねえ!なんでちょっと少女漫画チック?!

ノビ

やっぱ女性は華がないとね。梅子だけに。

1864年(元治元年)、梅子は江戸の牛込南御徒町に生まれます。

父親は幕臣の津田仙。母は初子。仙は外国奉行支配通弁(通訳)の職にあり、幕府の使節としてアメリカに行ったりもしていた外国通でした。

しかし幕府瓦解とともに官職を辞し、外国人の旅行者のために設けられた洋風旅館に就職します。

ほどなくして1871年に開拓使嘱託となり、政府の仕事の一端を担うようになりました。

ノビ

当時は外国方で働いていた西洋通は希少だったらしい。開国に及んで貴重な人材だったろう。

モブ

渡米した経験は得難いものでしたからね。国を挙げて開国事業を行っている最中にほっとかれるはずがありません。

時に梅子、満6歳。

開拓事業の一環で官費による女子留学生を派遣することとなったことで、仙は長女の琴子をメンバーに加えようと考えましたが、

琴子(ヤブ)

婚期が遅れるから、イヤ!!

と拒否し困っていたところ、

梅子(ノビ)

ほなら、ワイが行くわ。

自ら志願し日本人初の女子留学生の一人としてアメリカに留学することに。

このエピソードからもわかるように幼少の梅子は好奇心旺盛で先進的な考えを持った子供でした。

10年間の留学のためにアメリカの首都ワシントンD・Cへ

約10年に及ぶ官費留学生としてメンバーに選ばれたのは次の5人。

  • 上田悌子(旧幕臣の娘。満14歳)
    • 吉益亮子(旧幕臣の娘。満14歳)
    • 山川捨松(会津藩士の娘。満11歳)
    • 永井繁子(旧幕臣の娘。満8歳)
    • 津田梅子(旧幕臣の娘。満6歳)
ノビ

・・・・全員旧幕臣か佐幕系(旧幕府派閥)の家柄じゃねーか!!

デブ

敗残の身ではどういう無理難題も甘んじて受けなければならなかった時代っス。パワハラ受けても佐幕系に人権ナシって感じっス。

当時ただでさえ西洋教育を持つものは希少であり、まして女性が洋学を学ぶことはほとんどありませんでした。

女性は結婚して家庭をなすというのが常識であった時代。10年勉強して婚期を逃すことは理解されがたい行為だったのです。

彼女たちは当時世界中を見聞するために組織された岩倉使節団に随行してアメリカの首都ワシントンD・Cに到着。

梅子は吉益亮子と一緒にジョージタウンに住んでいる著名な画家(著述家、旅行家でもある)チャールズ・ランマンの家にホームステイすることに。

このホームステイ先のランマン夫妻、とりわけ夫人には格別にかわいがられ、梅子も生涯彼女を敬慕したそうです。

一時期は留学生のみで生活していたこともありましたが、大部分はランマン夫妻のもとで語学やピアノを学んでいきました。

ついで、資産家で慈善家であるメアリーモリス夫人と知り合います。

彼女は梅子のよき理解者となり陰に陽に彼女の支援を惜しみなく続けました。

この留学中のみならず、のちの津田塾大学の創立の際にもアメリカから後ろ盾となって寄付集めに奔走してもらったり

まさに両女史ともアメリカでの母親代わりといっていい存在。

留学早々に学問の才能の片りんを見せる

どうも梅子には天性学問の才能があったようで、

梅子(ノビ)

絵日記描いたるで。せっかくだから横文字で書くわ。

と、留学からわずか9か月後に渡航について詳細を述べた英文の絵日記を書いてランマン夫妻を驚かせました。

モブ

渡米が6歳だから7歳くらいで日常の会話から読み書きまでできるようになったんですねえ。というかもうあんたが梅子にしか見えない。

同時期にキリスト教への信仰を持ち始め、教会で洗礼を受けますが、その時の牧師からは

牧師(デブ)

感性と表現力はいくつか年上のアメリカの子より優れているっス!

という評価をいただきました。

梅子は語学以外にもピアノは相当な腕前だったようで、帰国後も人前で披露しています。

もちろん学問のほうも進み、1878年にはコレジエト・インスティチュートを卒業、私立女学校のアーチャー・インスティチュートに進学しラテン語、フランス語の語学のみならず自然科学や心理学、芸術なども合わせて習得しました。

1882年、同学校を卒業しアメリカ留学を終えた梅子は日本語をすっかり忘れていました。

偽梅子(ノビ)

え~ははは、はろ~。はーわーゆー?

モブ

アンタは日本語も怪しいんだからもう無理しないで。

ヤブ

この後も梅子は日本語よりも英語のほうが得意で、留学仲間とは帰国後も英語で会話し、手紙も英文で書いていました。梅子の中では母国語(思考の言語手段)は生涯英語だったそうです。

留学終了後の梅子の活動

梅子が帰国した翌年、ランマン夫人と梅子の姉の旦那さんから海軍士官の青年と縁談話が持ち上がりましたが梅子はなぜか頑として断ってしまいます。

どうやら梅子は結婚して女性としての幸せを送るより、なにかもっと大きな志があったのかもしれません。

その後伊藤博文の客分となって、家族の家庭教師兼通訳として働いたり、桃夭女塾(実践女子大学)の下田歌子から日本語を習い、また彼女に英語の手ほどきをして互いに語学を教えあっていました。

それだけでなく、桃夭女塾の教壇に立ち、英語教師として塾生に臨みます。

このころから梅子は教育者としての実績と活動を本格化させていくことになります。

華族女子学校教授として教鞭をふるう

伊藤博文の推薦で1885年(明治18年)新たに立ち上げられた華族女子学校に公式の英語教師として招かれます。その年俸420円。

ノビ

やっす。薄給の私よりもやっすいじゃん。生活できんのこれ。うまい棒生活?

ヤブ

明治時代の1円の価値は現在に換算するとおおよそ2万円といわれています。840万円相当の高給取りです。翌年には教授に任じられ年俸500円の堂々たる高等官でした。

しかし梅子は旧幕臣の娘でありながら、アメリカ生活が長かったため上流階級の雰囲気にあまり馴染めなかったそうです。

そういうこともあって梅子は教育者としてよりも、自身の学びを求めるようになります。

教えるよりも学びを求め研究者として開花

梅子は学校に教授の籍を置きつつ、再び2年間(のちに1年延長)のアメリカ留学を果たします。

ブリンマー大学で生物学を学び、この時に梅子は「カエルの卵の軸の定位に関する研究」を発表し指導教官と連名で論文を書いてイギリスの学術雑誌に掲載され、

日本人女性で最初に欧米の学術雑誌に論文を発表したという栄誉を得ます。

このことからもわかるように、梅子は教育者としてだけでなく研究者としての能力も卓越していたことが見て取れます。

しかし梅子の心境に転機が表れるきっかけが訪れます。

友人のアリス・ベーコンという女性が日本女性に関する研究をしていて、梅子はその研究を手伝っているうちに、母国の女性教育の在り方を深く考えるようになりました。

それからは、自身の学問研究だけでなく、同じように海外教育を志す日本女性のために奨学金の設立など教育の支援やシステムの確立に尽力するようになります。

教育者となるために再び日本へ帰国

梅子は研究者としての道を捨て、日本女性の教育を促進することを命題に再び日本に戻ってきます。

籍を置いていた華族女学校に復職するだけでなく、明治女学院講師、女子高等師範学校(のちのお茶の水女子大学)教授を兼任。

海外においても積極的に日本女性地位向上のための集会に参加し演説を行うなど、教育者、女性活動家として八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍を見せ始めます。

ノビ

出たな。お札の人特有の能力開放。ギア6か!

モブ

梅子をはじめとした女子教育の推進者たちのおかげで女性の教育の場を設けるための法整備が進み、様々な専門教育機関ができてきます。

そしてついに、梅子自身が教育理念を実現するため自分の学校を設立する活動を開始。

第1回留学時代にお世話になったモリス夫人を始めとしたアメリカの知人たちから寄付による支援を受けてついに「女子英学塾」(のちの津田塾大学)を設立します。

理想の学校を実現するための梅子の情熱と想い

梅子が他所からの雇用や嘱託でなく初めて自ら主宰した教育機関。

その学風はそれまでの一般的な女子教育とは違い、非常に進歩的でレベルの高い欧米風の教育内容でした。

「女性は家庭に入って子をなすもの、男性のような社会進出のための学問は不要

という常識を破る厳しい授業は評判になり、一方で脱落者も相次いだといわれています。

梅子は生涯未婚を貫き、女性の教育向上と学校経営に情熱を傾け続けました。

彼女は幼少時代には踊りを好み、1回目の留学後はお洒落に気を使うなど若い女性らしいふるまいを見せていましたが、2度目の留学を経て教育者としての使命を自ら課すようになるとまるで人が変わったように地味で質素な生活を送るようになったそうです。

経営は常に火の車で何度も苦境に立たされましたが、彼女は資金集めに格別な才能と情熱を見せました。

それを可能にしていたのが学問を通して繋がった友人知人たちです。

留学同期生の山川捨松(大山捨松。のちの大山巌の妻)、永井繁子(瓜生繫子。日本初のピアニスト)の助力や、伊藤博文新渡戸稲造などの有力な協力者による支援。

そして何より留学時代におけるアメリカの保護者や師、学友の力が大きかったことは言うまでもありません。

54歳で体調を崩すまで、梅子は無私で厳格で有能な教育者であり続けました。

1929年(昭和4年)65歳で永眠。

彼女の死後も学校はいく度か危機にさらされ、しかしその度に彼女の遺志を継いだ人たちが彼女の理想を実現するために奔走し、現在の津田塾大学に受け継がれています。

ノビ

まだ女性の地位が低い時代、彼女は青春を学問に費やし生涯を女子教育の確立と女性地位向上に捧げた。なんて立派な人なんだ!

デブ

お札の人に選ばれるのも納得っスね!

モブ

・・・・・・・あのー感動してるとこ悪いんですけど・・・・

ノビ

何よモブちゃん。せっかく感動のフィナーレで幕を下ろしたのに。

モブ

北里さんは?北里さんの紹介はまだなの?

ノビ



・・・・・・・・・

次回、1000円の人、北里柴三郎、乞うご期待!

モブ

ぶっ飛ばすぞてめえ!

乞うご期待!

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