今年最早半年が過ぎようとしている。
約半年後には新紙幣が導入される年ってあまり実感感じない今日この頃。
年月経つの早過ぎませんかね?
歳をとった証拠ですねえ。
2019年に決定された紙幣のデザイン刷新、当時結構な賛否両論がありました。
現在はキャッシュレスへの移行が進み世代の若い人はあまり関心がなかったりするのではないでしょうか。
とはいえ、まだまだ現金信仰が根強い日本。
今後もお世話になるであろう新紙幣の肖像の人物たちがどういった人達なのか。
ちょっと気になったので深掘りしてみました。
新紙幣の肖像画の歴史人物達をリサーチ
壱万円札(¥10000)・・・渋沢栄一
五千円札(¥5000)・・・津田梅子
千円札(¥1000)・・・北里柴三郎
今回選出された肖像の方々は割と知名度重視というよりも経済や教育、化学の面などにバランスよく配慮された面々であると窺えます。
最も、これ以前の紙幣の肖像もそういったパワーバランスは考慮されていて、夏目漱石や野口英世、福沢諭吉など教育や科学面での功績が評価された人が選出されています。
とはいえ、毎回結構なサプライズと言おうか、
なんでこの人なん?って人が結構いたりしますね。
その人物が決して相応しくないというわけではないんですが、選出される基準が知名度にウェイトを置いてないのか、特に最近の人選はなかなか予想不可能。
政治家が多い印象がありますが、実際は文化人や教育者研究者、昔の公家などが選ばれることが多いです。
その中でも過去何度もお札の候補に挙がった実業家渋沢栄一を紹介します。
10000円札(壱萬円、1万円)の人、渋沢栄一紹介
それでは早速エクストリーム人物列伝開始!
あんたそれ好きだな。丁寧に説明しましょーね。
渋沢栄一
西暦1840年3月16日(江戸期天保11年2月13日)、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)の富農の家に生まれました。
なんで似顔絵やねん!あと変なポーズ!
パリピ・エーイチ。
※実写だと差しさわりがあるので似顔絵で表現しています(似てない)
実家の渋沢家は農家でしたがコメや野菜だけでなく、養蚕や藍玉(染料の一種)などの製造販売を行う工場や商家の一面も持った家柄だったそうです。
もともとが多角経営していた会社のような家に生まれ育ったのね。この環境が栄一の経済感覚を養ったわけだ。
反幕の「勤王志士」から「将軍側近」という数奇な運命
時に幕末。
このころの志ある若者はみな勤王の志士として活動していたので、ご多分に漏れず栄一も志士活動に奔走するようになります。
もともと千葉周作を開祖とする北辰一刀流の門下として剣術修行に励んでいた栄一は、尊王思想の大元締めである水戸藩の剣術指南役になっていた千葉家の尊王攘夷志向に影響されて、同門の勤王志士と盛んに交流していました。
しかし、ひょんなことで知り合いの一橋家家臣、平岡円四郎の推挙で一橋慶喜(のちの15代将軍徳川慶喜)の部下に。
何の因果か勤王志士とは反対の立場(佐幕派)になってしまいます。
側近として幕臣になり、慶喜について京都で奔走したり、
のちにフランスのパリに視察団の一人として随行したりとしているうちに、本国日本は大政奉還で江戸幕府は消滅、京都中心の新政権樹立の憂き目に。
きいてねーよ!ってなったろうな。
でもこの時のヨーロッパの見聞がのちの彼に多大な影響を与えたっス!
江戸幕府消滅後、新政府での活躍
帰国すると、旧主である徳川家の静岡藩に出仕し、フランスで学んだ株式会社制度を実践する道筋を作ったり、商法会議所を設立したりと主に経済畑で活躍していました。
そんな功績を中央政府が耳にし、民部省に招かれます。
一度は辞退したものの、説得され出仕し国立銀行条例の制定などに携わったりしてその能力をいかんなく発揮。
転じて民部省と統合された大蔵省で東京の都市計画や、紙幣の発行などさまざまな国家経済活動に関わり続けました。
その後大蔵省を辞職し、現役時代に設立を指導していた第一国立銀行(のちの第一銀行、第一勧業銀行、現みずほ銀行)の総監役に就任。
第一国立銀行を通じて日本全国の国立銀行を指導、支援し日本の銀行制度の基礎を作ることに尽力しました。
形を変えつつも現在も多くの銀行が氏の事業の礎となって残っています。
栄一氏が関わった企業群
銀行業だけでなく、彼の関わった企業、事業は枚挙にいとまがありません。
現在まで系譜が残っている企業を羅列すると、
王子ホールディングス、日本製紙、東京ガス、IHI 、いすゞ自動車、立飛ホールディングス、大日本印刷、日本経済新聞、東京海上日動火災保険、東日本旅客鉄道(JR)、東京電力ホールディングス、太平洋セメント、キリンホールディングス、清水建設、日産化学、東京製綱、サッポロホールディングス、アサヒグループホールディングス、大成建設、川崎重工業etc・・・・・・。
生活インフラ、交通、製造、メディアなど関わらなかった業界はないといえるレベル。
渋沢栄一10つ子説を推します。
渋沢栄一は一人です。まぎれもなく。
その他、教育界にも多大な貢献をし、商法講習所(現一橋大学)の運営を支援したり、
男尊女卑だった当時に女子への高等教育の必要性を訴えて東京女学館などの女子教育機関の立ち上げに深く関わっていたりします。
・・・・渋沢栄一200歳説を提唱します。
実際長生きでしたけどね。享年92(91歳没)。やっぱり偉人ってのは体力気力が尋常でないんでしょうか。
個々の企業に関わるだけでなく、明治11年には東京株式取引所を設立。
現在に至るまでの日本株式取引のシステムの基礎に尽力しています。
近代日本経済の祖:渋沢栄一の経済理念
また、実業だけでなく文化や娯楽、国際交流などにも熱心に取り組み、その広い人脈をいかして社交界でも存在感を示しました。
これだけ日本の経済に貢献していながら、公益を重視していた栄一氏の意向で個人はもとより一族の資産もさほどに多くはなかったそうです。
岩崎弥太郎率いる三菱財閥や、三井財閥のような巨大な財力を持たなかった栄一氏の有名な著書「論語と算盤」にそのゆるぎない理念が記されています。
富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。
「論語と算盤」より
商業道徳を持ち、社会的貢献をしなければその資産や利益は永続的に享受できない、という思想の元数えきれない事業の立ち上げに生涯貢献しました。
この書でお金なんて仕事の残りカスにすぎないよ、と言い切る氏の濃密な人生はまさに充実した仕事人の人生だと思います。
まさに一万円札の顔になるにふさわしい功績の人物。
普段は電子マネーやクレカで会計を済ましてほとんど現金は使用しませんが、
新紙幣が発行されたらさっそく一枚手にしてみたくなりました。
ところで五千円の津田さんと千円の北里さんは?
それは次回の後編で!
お札の人の記事はまだ続く。